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第6話 婚約契約という名の事故物件

Penulis: 八月 猫
last update Tanggal publikasi: 2026-07-02 09:02:16

婚約契約。

人生で初めて聞く言葉だった。

いや、言葉としては理解できる。婚約と契約を合わせたものだろう。意味はわかる。

わかるけれど、納得は遠い。

ホテルの静かなラウンジ。夜景の見える奥の席。大きな窓の向こうには、ビルの灯りが星みたいに散らばっている。

さっきまでいた会場の熱が嘘みたいだった。

グラスが鳴る音も、拍手も、陽斗を称える声もここまでは届かない。厚い絨毯が足音を吸い、低く流れるピアノの音だけが空気に溶けている。

目の前には、鷹宮玲央と名乗った年下の御曹司。

そして私は、婚約者に捨てられた直後に別の男から婚約契約を持ちかけられている。

状況が渋滞している。

「確認してもいいですか」

「はい」

「私たちは今、初対面ですよね」

「はい」

「初対面の女に婚約契約を持ちかけている自覚はありますか」

玲央さんは少しだけ目を伏せた。

反省している顔だった。けれど撤回する顔ではない。

「あります。かなり無理な提案だとも思っています」

「思っているのに出してくるんですね」

「はい。今はそれだけ急いでいます」

その返事があまりにまっすぐで、私は少しだけ言葉に詰まった。

もっと綺麗な理由を並べるのかと思っていた。財閥御曹司らしく、こちらが反論しにくい言葉を選ぶのかと思っていた。

けれど玲央さんは、自分の都合を隠さなかった。

窓際の小さなテーブルに、水の入ったグラスが置かれる。スタッフが音もなく下がっていったあと、透明な水面にラウンジの灯りが細く揺れた。

私はその揺れを見ながら息を整えた。

落ち着いている場合ではない。

でも落ち着かないと、この人の話に流される。

「母が進めようとしている縁談は、今日この場でほぼ決まるはずでした。俺が曖昧に断り続けたせいでもありますが、これ以上は引き延ばせません」

玲央さんの声は静かだった。

大げさに困っているわけではない。誰かを悪く言うわけでもない。

ただ、自分が詰んでいることを淡々と説明している。

御曹司も詰むのか。

妙なところで感心してしまった。

「つまり、私を縁談よけにしたいということですか」

「大きく間違ってはいません。ただ、一方的に利用するつもりはありません」

「利用という単語は否定しないんですね」

「否定すると嘘になります」

最悪だ。

でも嘘をつかれない分だけ話は早い。

私はグラスに指を添えた。冷たさが指先に移る。左手の薬指にある指輪が、さっきよりもずっと場違いに見えた。

陽斗と選んだ指輪。

ほんの一時間前まで、私はこれを未来だと思っていた。

今はもう、過去になる準備をしている。

その隣で、別の男から婚約契約の話をされている。

人生の展開が雑。

「私に得がありません」

「そうですね」

「同意が早い」

思わずツッコんでしまった。

玲央さんは少しだけ口元を緩めた。けれどすぐに真面目な表情に戻る。

「だから条件を提示します。聞いたうえで断ってください」

断る前提で聞かせてくれるらしい。

そこだけは少し信用できる気がした。

ほんの少しだけ。

私は水を一口飲んだ。

冷たい水が喉を通っていく。胸の奥に残っていた熱が、わずかに下がった気がした。

「わかりました」

グラスを置く。

窓の向こうで赤い航空灯がゆっくり瞬いた。

「聞くだけ聞きます」

玲央さんは静かに頷いた。

「ありがとうございます。琴葉さん」

名前を呼ばれて、また少しだけ違和感が胸に触れた。

陽斗とは違う呼び方。

柔らかいのに、なぜか軽くない。

私は指輪の重さを左手に感じながら、目の前の御曹司を見た。

婚約契約。

どう考えても事故物件だ。

でも、事故物件にも内見くらいは必要かもしれない。

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